廊下から見上げた空の色に呆れたように眼を細めた。
 一昨日からターゲットを追い回していたと言う事実を知らない訳ではないだろうに、
 …とは誰に愚痴ったところで仕方のない話だった。
 言いようのない苛立ちは誰に向けられるでもなく、
 すぐ真下のコンクリートづくりの階段を蹴り飛ばし、丁度スニーカーのつま先にあたって低くうめく。
 
 全く馬鹿げていた。
 何もかもが、いや、誰も彼もが。


 その週の週末は生憎と晴れていて、
 部屋から出てきそうにないリーダーを叩き起しに行ったジェラートを見送り、
 窓の外を見たままのソルベの横でギアッチョは大学で出された課題とやらとにらめっこしている。
 
 まだ学生なのだった、彼は。
 思い出したように隣を見たソルベが面白いかと問いかける。
 別にとぶっきらぼうに返した言葉を聞いてその口元が弓なりにつりあげられた。



 仕事のない日は仕事場…と言うかチーム全員で使っているアパルトメントの一室でだらだらとしているか、
 真面目に授業に出てみては美術史なんかを学んでみたりもする。
 と言うか本業は学生なんだぜと言ってみたところでチームの面々は笑うだけだろうが。


 ギアッチョの専攻は彫刻である。
 ただただ黙々と没頭できるその時間は、一番落ち着くものだった。
 煩わしい何かにどうこうとされる理由もない。
 日常と言うものを過ごす時、他の連中が何をしているかと言えば仕事だとか、
 …飲みに行ったりだとか、暗殺者である仮面の上に被った、
 あるいは暗殺者である事が仮面なのかそのあたりはどうでもよかったのだが、
 ギアッチョはプライベートと仕事での線引きがうまくいかないでいる。


 血の匂いをさせて彫刻をするなんてェのは、芸術に対する侮辱だ、
 …などとはイルーゾォあたりが言いそうなものだったが、
 実際それを口にしたのはギアッチョ自身であったから驚きである。


 彼は彼が思うよりもこの時間を静謐な、
 そう、とても重要なものだと考えている。
 それをわかっているチームの、特にリーダーは、
 仕事がない日にメローネが大学に遊びに行こうとするとまず止めるのだった。一応は。


 大体の場合メローネが遊びに来るとどういった具合になるかと言うと、だ。
 まずは二人の言い合いから始まり、ほぼ貸切の室内(そうでなければギアッチョは集中できない)…が彫刻刀が散乱し、
 酷いときには流血沙汰になるもので、…そんなことがありつつの日常だったもので。


 結局ギアッチョが入れる教室は旧校舎の一番隅だった。
 今のところここで作業をしているのは油絵の専攻の生徒だけらしい。
 絵の具の匂いがきついとのことで大概の生徒がここに居ると聞いていたが、
 未だに出会ったことはない。


 そろそろ自覚するべきだった。
 ギアッチョはトラブルメイカーとして避けられていると言うことに。
 (無論、その原因はメローネである)


 五階の一番隅の部屋は日当たりもよく、
 静かで、眺めもよく、事務所代わりのアパルトメントの次にギアッチョの気に入っている場所である。
 その辺りの話はメローネも気づいているのか、この部屋に移動してからは騒ぐことはなくなった。
 相変わらず鬱陶しい程に居ついてはいるが。


 とかくもかくも、それがギアッチョの日常の一つであった。











  Belphegor(怠惰)








 


 「あの子可愛いね」


 窓から外を見ていたメローネの言葉にギアッチョはちらりと視線を向ける。
 何も言わずに煩いと言う意味をこめればメローネは肩を竦めた。
 暫くしてメローネが続ける。


 「あ、こっち見た」


 窓の外に手を振っているメローネは完全にシャットアウトして、
 目の前の鉄の塊と向き合う。
 半田で溶かしたり、あるいは柔らかい内に角やらを生やした何かは、
 ギアッチョ曰く俺の感情そのもの、らしいが、
 これを事務所に持ち帰らずに作業しているあたり、
 何かしらつつかれるのがわかっているのだろう。


 「ギアッチョ、俺ちょっと行ってくるね」


 そう言って教室を出ていくメローネを一瞥し、
 滑らせた彫刻刀の刃が大分丸くなったのを見て、研磨しなければと壁にかけてある時計を見上げる。
 もう少しでリーダーからの召集のかかる時間だった。


 教室の入り口の方から音がして振り返らずにギアッチョは言う。


 「先帰ってるからな」


 答えのない相手を振り返らずに、片づけをはじめれば、
 小さなか細い声がした。


 「ギアッチョ、あの子やばいよ」


 「…誰の話してんだテメーは」


 ひくりと苛立ちそうになる感覚を宥めるようにして、
 つくりかけのそれに白い布をばさりとかぶせる。
 
 「…さっき声かけた子。
 ………あれは中々」


 「…テメェ、うちの大学の生徒に手ェ出すんじゃねーぞ」


 面倒だから、と心の中で続けたのだろうなとメローネは目を細めた。
 基本的に他人にあまり関心をもたない男なのである、目の前の彼は。


 「出さないよ。きれい過ぎて、出せない」


 逆にその言葉で気をひけないかと試してみたのだけれど、
 ギアッチョはああそうか良かったなとだけ返して教室の鍵を閉める。


 正直な話メローネは思うのだ。
 目の前の彼が恋とやらの一つでもすりゃあいいのにと。
 だってそうしたら、そうしたら、
 楽しいではないか(主に自分が)








 その日の任務はいつもの通りの殺し、
 ただし逃げられたのはいつもの通りのマンモーニのせいである。
 いい加減プロシュートの過保護っぷりにはどうにかしろよと誰もが思うところではあったが、
 一応のことそのターゲットが逃げ出した先を見つけたのがマンモーニ…ペッシだったからお咎めはなさそうだった。
 そのターゲットを追いかけたのがギアッチョで、
 これもまたいつもの通りにスニーカー裏にアイススケートの要領で滑らせれば、
 コンクリートの地面は巨大なアイスリンク。
 深夜の話だ。この辺りはこの時間であれば誰も居ない、…筈だった。


 五つ目の角をすべりぬけ、曲がろうとしターゲットを追い詰める。
 その時に彼は気づくべきだったのだ。


 一瞬で凍りついたターゲットを力任せに砕く。
 割れた破片が月明かりにきらきらと輝いた。
 月明かりに照らされた破片はきれいに見えた。
 足の裏のスタンドをといて後ろを振り返ると、そこに"彼女"が居た。


 「……―――――ッ」


 み、ら、れ、た。


 目で見た情報はすぐに伝達される。
 思考回路へと、伸ばそうとした指先を見てそう大して背の高くない彼女がギアッチョを見上げる。
 砂糖とバターと月を煮詰めたみたいなハニーイエロゥのブロンドは、どうやら染めているらしい。
 緩いパーマが地毛かどうかは判断つかなかった。


 アーモンド形に唇をつりあげて、彼女はひどく感動しているらしかった。
 何に?


 「君、君は魔法使い?」


 深夜も間近の話である。
 目をきらきらと輝かせている彼女は異質だった。
 ファンタジーやメルヘンの世界じゃないんですから、などと誰かの言葉が聞こえてきそうだったが、
 あいにくとギアッチョはその誰かとは面識がないので聞こえなかった。


 ただ、この状況でこの場所でえらく幸せそうな面をする女を見た事がなかった。
 
 「馬鹿か、テメー…」


 呆れたように漏らした言葉に彼女は首を傾けてから、


 「至って本気だけど」


 大真面目に言うのだ。
 誰だこの変人は、メローネの親戚かなどと毒づこうとして、
 伸ばしかけた指先が彼女を殺す為のものだったと思いだす。


 目の前の彼女は何も理解してなさそうだった。
 殺す必要もないかもしれない、…ぼんやりと思う。
 
 そんな事を考えてしまえる程、
 目の前の彼女はきらきらと目を輝かせている。


 「………」


 舌打ちをひとつ。
 鳴り出したポケットの携帯に手を伸ばし、
 彼女の手を握ると歩き出した。
 まだこの距離ならば気付かれていない筈だ。多分。


 『あ、もしもしギアッチョ?どうだった?』


 「気分悪ィから先帰る」


 『……へ?ちょっと、何かあったの』


 電話向こうのメローネの声にギアッチョは別になんでもねェーとだけ返して、
 彼女の手を引いて歩いた。夜の道を。








 何所へ行こうかと迷って辿り着いたのは、
 全く帰るつもりもない大学の寮の自室だった。
 帰りもしないものだから奇麗にしてある、と言うよりはもののない部屋の端には、
 窓の傍に大きなベットがあって、後は本だとか、メローネが持ち込んだよくわからないものがちらほらと。


 扉を開けて彼女を連れ込んで、
 
 「……つーかよオメェ誰だ」


 あの状況で氷が見えた、とすれば可能性としてあるのはスタンド使いか、
 それともただ物質化した氷が見えただけなのか。
 どちらにせよ警戒の必要はあった。リーダーにすぐ届けるべきだろうかとも思う。
 
 「…。日本からの留学生。君は?」


 「…ギアッチョ。…お前うちの大学の生徒かよ」


 「うん。まぁね」


 抱え込んでいるキャンバスからは油絵の具の匂いがした。
 もしかしたらあの旧校舎の何処かに居るのかもしれなかった。


 溜息を一つ、ギアッチョの中に明確な線引きがあるらしいことに、
 彼自身が気づいた瞬間だった。
 大学の連中には手を出さない、出したくない、
 …多分彼はそこを日常だと認識しているのかもしれなかった。


 「……俺が何してたのか見たのかよ」


 問題はそこである。
 彼女はあっけらかんと、首を傾けて手を引いたままこっちを睨んでいるギアッチョを見返す。
 
 「………何か砕いてたって事ぐらいは」


 セーフ。
 心の中で呟いた。
 見られていないのならばいいのだ、そう。


 「なら別にいいけどよー…」


 脱力感、思ったよりも疲れているのかもしれないなどと思った。
 繋いでいた手をぷらりと揺らして、
 彼女が不思議そうに瞬く。


 「でもあれ人間だったよね」


 ひゅ、と鳴ったのは喉の奥。
 息を飲んで見返せばギアッチョは彼女の不思議そうな瞳とぶつかる。
 何も理解していなさそうな瞳。


 「………魔法使いは人を殺すの」


 問いかけは相変わらず微妙な路線だったが、
 殺しではない殺しをギアッチョはした事がない。
 そもそもそんな失敗を今までした事がないからだ。


 どうしようもない感覚は任務を失敗した事が原因なのだろうか。
 問いかけに答えられずに、別にと短く返す。


 「…こっち来てギャングが本当に居るんだなあって思ったけど、
 だったら人殺しも居るのかもしれないね」


 普通に、と小さく漏らした彼女の言葉は現実を理解していないそのものだ。
 日常ってのは簡単に壊れるものだと知っているギアッチョは、
 その言葉がひどく…ひどく笑えた。


 「目の前にな。居るぜ?」


 笑えたのは多分、疲れているからだと言い訳をして、
 何もかもを明日にしてしまえとそんな事を思いつく。
 そうなんだと笑い返した彼女をぐいと引きよせて、
 泊って行けよとか、そんなやりとりをして寝てしまう事にした。人はそれを投げやりと言うのだけれど。













 朝目が覚めて隣の見知らぬ女に呆然としてから、
 自分を起こしにきたのがメローネである事実に愕然とした。
 どうやら昼間からのシフトが急遽こっちに回されたらしかった。


 「…ギアッチョにも春がねえ」


 「ちげェ!っつーか起きろてめェ」


 隣で寝呆けている彼女をひょいと覗き込んだメローネは息をのんだ。


 「あー!ちょっとギアッチョ、俺が目をつけてた子を」


 「はァ!?」


 シーツに包ったままあと三十分とか抜かしている彼女はなかなか起きそうにない。
 肩を揺さぶってみたり、耳元で起きろとは言ってみるのだが、
 全く起きる気配はない。


 流石に怒りの頂点に達したギアッチョが起きろォとシーツをひっくり返せば、
 ベットから落ちた彼女がのそりと瞼を擦りながら起き上った。


 「ごはん」


 短く漏らされた声にメローネがかーわーいーいーとか身をくねらせたのを蹴り飛ばしつつ、
 ギアッチョは彼女の眼の前にしゃがみ込み、問いかけた。


 「何が食いてェーんだ」


 ぎょっとしたのはメローネだ。
 ギアッチョが誰かにそんな言葉を聞いたと言う事実より、
 もしかして自分の知らない内に彼女のひとり程度居たのかもしれない。


 「ギアッチョその子とどういうかんけ」


 「…ぱんなこった」


 ゆったくるい調子で言われた言葉は間延びしている。
 朝からプリンかよと毒づいたギアッチョは彼女の頭を撫でようと手を伸ばしてから、
 投げ出されたままの白い腿を見て叫んだ。


 「テメェ、ズボンぐらい履けッ!!!」


 ぎゃんぎゃんと顔を赤らめるギアッチョに、うんうんこれでこそギアッチョだと言わんばかりのメローネ。
 そんな朝だった。







 用意されたパンナコッタ…ではなく、トーストを三人で齧りながら。
 メローネは二人の関係を興味津津に、ギアッチョは苛々を抑えつけながら目の前のメローネを睨みつけている。
 彼女はと言えばこの部屋に居るのがさも当たり前みたいに、ジーンズの先の素足を床にこすりつけながら、
 落ち着いた調子でテレビを見ている。


 「…お前いつまで部屋に居ンだよ」


 「…おまえ、じゃありません」


 「…何時まで居るのかって聞いてんだ」


 牛乳をグラスに注いだ後に差し出せば、ありがとうと振り返りほほ笑む。
 つられてメローネがほほ笑むとギアッチョがうぜェと言ってメローネを睨みかえす。
 
 「…おまえじゃありません」


 「……名前なんつった」


 「


 「はいつまでここに居るつもりなのかってェ、聞いてんだよ」


 「…なんとなく?」


 答えになってねェとテーブルをひっくり返そうとするギアッチョをメローネが制し、
 彼女が肩を揺らしてくすくすと笑って言った。


 「君、可愛いなあ!」


 「はァ!?テメェの方が可愛いだろうがッ!クソッ!」


 噴いたのはメローネで。
 これは堪らんとばかりに自覚していないらしいギアッチョを見返して大笑いするのだった。


 「…ああー…ありがとう」


 なんだか照れているらしい様子にギアッチョはひどくやり難い感覚だけを覚える。
 それはちょっとした変化だった。
 







 



 あれから数日するまでもなく、
 いつの間にか彼女はこの部屋の中に居る。
 彫刻をしている横でひたすら油絵の具の匂いを充満させていくのは正直うんざりだった。
 
 ちらりと後ろを振り返る。
 彼女とメローネが何か楽しそうに話をしている。
 イラっとした。


 何か言おうとした言葉よりも先に彼女がギアッチョを振り返る。


 「ねーギアッチョって、どんな子が好き?」


 「あァ?……どんな子って、女の話かよ」


 不意に息をのみ込みそうになったのは、よくわからなかった。
 あの夜に見た彼女の自分を魔法使いだと言う言葉と同じくらい理解できなかった。
 
 「…………」


 真剣に見返してくる視線から逃げようとして、
 どうして未だにリーダーに告げていないのか自分でも理解できなかった。


 「……ぱんなこった好きなヤツ」


 ようやく返した言葉にメローネがきゃーとか悲鳴をあげる。
 黄色い声だ、うるせェとだけ返して耐え切れずに床から立ち上がると、
 自分の服の袖をつかむ手のひらがある。


 「ンだよ」


 跳ね上がりそうになる心臓に苛立ちはない。
 ただ気でも失えばいいのにと、そんな事を思う。


 「わたしは魔法使いが好き」


 息をつまらせて、逃げるようにして彼女の手を。
 振り払う事なんかできずに、引っ張って、
 あの夜みたいに。


 そうやっていつの間にか日常に入り込んでくる彼女だった。
 水みたいに、空気みたいに。






 




 「ギアッチョってさ、の事。猫かなんかだと思ってるでしょ」


 車のハンドルを切るメローネに視線を向けて、
 助手席のギアッチョは窓の外の景色を眺めている。
 
 「…アイツによー…初めて会った時に魔法使いみてェだって言われたんだよな」


 「へぇ、ロマンチックだねまた」


 うるせェと小さく言葉を返して、
 ギアッチョは彼女がよく行く喫茶店を見つけて視線が後ろへと流れていく景色へと移動する。
 メローネが少し笑った。


 「なんつーかよォ…その時の笑った顔が忘れられねェー…んだよな」


 「それって一目ぼれって言うんじゃないの」


 「かもなァ」


 否定しなかった言葉にメローネは口笛を鳴らす。
 ギアッチョがうるせェとまた短く叫んだ。









 彼の変化をメローネは好ましく思う。
 彼が笑うようになったり、イライラする回数が少なければ少ないほど、
 任務中の彼の暴走する回数が減ったからだ。
 リゾットに何かあったのかと問われた時に、メローネはちょっとねとだけぼかして、
 女かと問われたところでそんなところと笑い返した。
 その時のリーダーの表情は春だなと呟いて、すっかり夏も過ぎた残暑の秋空を見上げたものだった。


 ギアッチョに彼女ができたとなればまずからかうのはプロシュートで、
 からかうと言うか所謂おせっかいと言うかそんなところだ。


 そんなこんなで会わせろよとなんて話になった日には、
 ギアッチョが大抵抗。
 っつーかありえねェ、誰が自分の女をとか、叫ぶ真っ赤なギアッチョの声に事務所内から笑い声が響いたのは言うまでもない。











 ある日の昼下がりの話だった。


 喫茶店で待ち合わせていたギアッチョが時間に遅れたのをひどく不安に思った彼女は、
 メローネの携帯に電話をかける。たまたま、だ。
 たまたまその電話の向こうに居たのはメローネが事務所に忘れて行った、という理由でリゾットなのだった。
 鳴り響いた携帯にとるかどうか迷ったリーダーは、ずっと鳴りっぱなしのそれに手を伸ばす。
 他人の電話にでるのもどうかとは思ったものだが、登録されている名前がギアッチョ(絵文字でハート)だったもので。
 
 「ギアッチョ、メローネは携帯を忘れて行ったらしい」


 『………えと、』


 聞き覚えのない女の声だった。
 
 「…誰だ君は」


 『、と申しますが失礼ですがええとそちらはメローネのお父さん?』


 電話の声だけで父親扱いをされたのは初めてだった。
 そんなに老けているのかと一瞬落ち込んだのもつかの間、登録の名前と聞き覚えのあった名前から、
 ああこれが件の彼女だろうかと思いいたる。
 自分たちの日常には正直そう言う繋がりはない方がいいだろうとは思っている。
 けれど、まだ年若いチームの連中に関しては一つぐらい心に重りがあった方がいいのだろうとは最近の判断だった。
 生きて帰ろうとする意思があればある程、危険な任務とてこなして無事帰還できるものだ。
 そう口にしたリゾットにじゃ、アンタはそういう話はないのかよと問いかけたギアッチョに、
 リーダーは口を閉ざした。生憎と、生憎とそこまで若くはない、などと苦し紛れに言い訳をしてみれば、
 プロシュートのアンタ堅いんだよなどと言う突っ込みと、ああ、ソルベとジェラートのからかいの声。


 つい先日の話だった。


 「…いや違う。…………友達だ」


 『………ともだち』


 無理があったかもしれない。
 なにせ父親ですかと聞き返されるような声を己はしているらしいから。


 「…先輩だ」


 『あー…仕事先のですか。いいじゃないですか、お友達で』


 気さくそうな感じの声だった。
 何処か抜けている節は否めなかったが。


 「いや。…いつも…ギアッチョとメローネが世話になっているな」


 『あは。…なんだか本当にお父さんみたいですよ。その言い方じゃ』


 笑う声は可愛らしい少女の姿を頭の中で描く。
 確かにチームを預かる身としてはそんなものかもしれなかった。
 一種の保護者のようなものでもある。
 
 「…メローネならば今はここに居ないが、何か伝言か」


 思わず口元に笑みが浮かんでしまうような、
 そう言う空気が会話の中にあった。


 『ん、ギアッチョと待ち合わせしてるんですけどまだ来なくて、
 メローネのところに行くって言っていたから、てっきり』


 確か仕事が午前中あった筈である。
 任務報告はプロシュートが受けたと聞いていたから、
 仕事中での失敗が、…と言う事はなさそうである。
 
 「……すぐに来るだろう」


 『そー…ですよね。ギアッチョいつも時間に正確だったから、少しだけ不安で』


 「あいつは几帳面だからな」


 少し笑ったらしいリゾットの声に彼女がですよねぇと笑う。
 何所までも普通さを持ち合わせている、そんな声だった。
 いい意味でマイペース、多分いつもそんな調子なのだろう。


 性質で言えばメローネが近いかもしれない。


 「…悪いが仕事に戻るのでそろそろ切るぞ」


 『あ、はぁい。それじゃお仕事死なない程度に頑張ってください』


 「ああ」


 切れた電話のツーツーと言う音に少しだけ寂しさを覚えた。
 久しぶりの感覚だった。











 町中のカフェで誰かを待っているらしい学生風の女の子に声をかけたのは、
 単に手持無沙汰だったからである。
 
 「お嬢ちゃん一人?」


 事務所からの買い出しの帰りで、荷物をを届けてしまえば後は夜まで時間が中途半端にあいていた。
 染めているらしい髪の色は元は多分色素の薄そうな茶色なんだろうと思う。
 柔らかそうな髪が渦を巻いているつむじを見やってから、
 見返した瞳にアジア系だなと感じる。


 思いのほか奇麗なイタリア語から唇から零れたのには若干の驚きを。


 「おじさんナンパはいけませんよ」


 などとひそひそ話をする様子に、もうそんな年だななどとしみじみする。
 煙草を吸おうとしてやめた。
 最近は喫煙のできる場所が少なくて、このオープンカフェでも確か禁煙の筈だった。
 その証拠に灰皿がテーブルにはない。


 「なんだよ、待ち合わせすっぽかされたとかそんなんだろう。どうせよォ、…しょうがねーなあ。
 ここはお、」


 後ろからの殺気を感じたのは一秒後。
 昼間っから誰がこの俺を狙うんだとばかりに振り返ろうとする。


 別にナイフをつきつけられた訳でもない。
 でも本気の殺気だった。
 
 「ギアッチョ!」


 椅子から立ち上がって己の後ろへと向かう彼女を見やって、
 ああこれが件の彼女かなどと思いいたる。
 つーかなんだこの殺気は、ふりかえれねェとばかりに身動きがぴたりとも動けない。
 
 「そいつはねーんじゃねぇか…ギアッチョよォ」


 いつもの調子で問い返せば空気がふと緩くなる。
 隣で彼女が不思議そうにギアッチョの顔を覗き込んでいるのが見えた。


 「…人の女ナンパしてんじゃねェぞ、テメェ」


 「テメェじゃない。ホルマジオさん、だ」


 「うっせーぞ、ホルマジオ」


 「…まあ、今のは70点だな」


 などと零して帰ろうとするホルマジオにギアッチョは言った。


 「手ェ出すんじゃねーぞ」


 これにはホルマジオが吹き出し、肩を揺らして大笑いをした。
 どうやらすっかり可愛くなったらしかった、この後輩君は。









 街中で出会った奇妙な二人組に彼女はギアッチョの事を問われて瞬いた。
 
 「素敵ですよ」


 短く返された言葉にすべてが凝縮されていたし、
 惚気を聞くために来ているのだから問題はない。
 ただ問題だったのはこれが大学の構内で、
 しかも本来ならばソルベとジェラートが来る筈のない旧校舎であり、
 ギアッチョを待っている彼女一人のところに来た事が問題だった。


 





 結局のところチームの面々はギアッチョの彼女、
 とやらに興味深々だったらしい。













 夏の昼下がりに、
 白く塗られた壁を見てリゾットが小さく漏らした。


 「ここに海が見たい」


 意味不明な発言だとばかりにプロシュートが眉を片方あげる。


 「頭でも湧いたのか、リゾット」


 
 いや、と首を横に振ったリゾットはギアッチョを見やり言ったのだった。


 「お前の彼女にここに海でも書いて貰ったらどうだ」


 「…は?」


 何言ってやがるんだコイツと視線をあげた先では、
 いやに楽しそうな様子のリーダーの顔が見えた。
 熱さでやられたに違いないと呟いたイルーゾォに大真面目にリーダーは言う。


 「今年の夏もどの道休暇はない。
 …少しくらいいいだろう。バカンス気分に」


 リーダーらしからぬ言葉だったように思う。
 今、思えば。





 プライベートと仕事の線引きは、
 彼女が居るか居ないかでバランスをとっていた。
 アパルトメントの一室に彼女が来た時、だらけていたチームの連中はおー女の子だなどと騒いだあげくに、
 やんやかんやと、テメーらはガキかとどなり散らしたギアッチョの横で彼女は笑う。いつもみたいに。


 「楽しそうな人たちだね」


 




 夏の合間に壁の前に座り込んでいる彼女を見る回数は何度もあった。
 二人でデートの時間とやらはずいぶんと減ったのだけれど、
 深夜だったり、夏休みの合間入り浸ったままの彼女がいつの間にか適応しているのに、
 リゾットは驚かずには居られなかった。
 
 ああ、まるでそこに居るのが当たり前のような表情で彼女は笑うのだ。


 




 壁に広げられた青い色が白いさざ波に添えられるようになった頃、
 夜遅くに帰ってきたペッシは何処かで波の音を聞いた気がした。
 後から続いて歩いてくるプロシュートを振り返り、
 ペッシは言った。


 「兄貴ィ、海の音がする」


 「…あァ?」


 仕事のしすぎでいかれたのかと思ったプロシュートが階段をあがってくれば、
 鼻についた匂いがあった。潮の香りだ。
 
 「…海風じゃねェのか」


 気のせいじゃねェのかと呟いた声と共にプロシュートが玄関の扉を開けば、
 扉を開けた先から階段へと向かって零れおちていくものがあった。
 水、だった。
 その内に水の中に白い砂が混ざり始める。
 
 ZAZAn…ZAZAn…


 波の音がした。


 新手のスタンド使いかと身構え、咄嗟にペッシを後ろにかばう。
 今この時間事務所に居るのは例の彼女か、ギアッチョの筈である。
 運が良ければイルーゾォが泊りに来ていたかもしれないが。
 どうだろう。


 室内に入り込めば足首まで水につかった。
 キッチンの椅子まで水につかればプロシュートはスタンドをゆっくりと発現しようとする。


 後から入ってきたペッシがうわぉうと驚く声に、
 静かにしやがれと怒鳴りちらしたところで、
 リビングからイルーゾォが顔を出した。


 「…すごいよ、プロシュート」


 感極まっているらしいイルーゾォに何がだよと小さく返したプロシュートに、
 ペッシが恐る恐る横から先にリビングへと通じる廊下を歩いて行った。
 その先にも潮の香りがある。


 「靴脱いで、大丈夫だから」


 「あァ…?」


 理解しがたいとばかりに靴を脱いで廊下を歩いていけば、
 元凶らしいのはどうやらリビングの壁らしかった。
 零れおちるような青い海は、室内へとあふれかえり、
 水浸しの室内のソファの上でギアッチョが黙り込んでいる。
 彼女は油絵の具を片手に筆を握り締めて、黙々と壁に海を広げている。


 「……なんだこりゃァ」


 海、だった。
 紛れもなく。


 足元に何か感じて視線を落とせば、貝殻が流れてきたらしい。
 指先を伸ばしてすくいあげた白い貝殻に鼻を近づければ、海の。


 潮騒が遠くて近い。
 ここは何処だ。
 事務所だった。


 「……アイツ、スタンド使いだったらしい」


 力の抜けたような声で漏らしたギアッチョに、
 どういう能力なんだと問いかけようとして止めた。


 スタンド使いは惹かれあう、そう言ったのは誰だったか。






 室内の水浸しの状況に気づいていないらしい彼女は、
 ギアッチョが声をかけても気づかないのだと言う。
 結局プロシュートは電話で日常の方の仕事中のリゾットを呼び出し、
 現状を見せたのだった。


 紛れもなく、海を。


 「海だな」


 見たままを呟いたリゾットに、
 見りゃわかるだろうがとプロシュートは片手を額にあてる。


 「……懐かしい香りだ」


 そう言ってソファに座り込んでくるリゾットを、
 先に座っていたギアッチョは迷惑そうにちらりと見やる。
 何度目かの彼女の名前を呼んで、諦めたように立ち上がると水の中に足を踏み入れる。


 冷てェと言う声がして、
 ふと、彼女が振り返った。


 「ギアッチョ」


 「…おう。つーか何してんだ、テメェはよ」


 「…、です」


 「…は何してんだ」


 「何って、絵を………って、おー!?」


 どんだけーなどと叫んだ彼女の様子にこれは無自覚だなと気づいたリゾットは、
 プロシュートに手まねきをして。近づいてきたその耳元に囁いた。


 「暫く様子見だ」


 「…了解」


 目の前では目の前の惨状に驚いたままの彼女と、
 テメーはよォと呆れたようななんとも言えないギアッチョとの姿がなんだか微笑ましく見えたのだった。







 翌朝。
 目がさめればまるで夢だったかのようにそれは忽然と消えている。
 けれど何処か海の匂いがした。
 
 「ありゃ夢だったんじゃねェのか」


 とぼやいたプロシュートに集団催眠はないだろうと切り返したリゾット。
 ギアッチョは壁の方をじっと見たまま、隣で絵の具を空の青へと変えている姿をちらりと横目にする。
 





 そんな日が暫く続いた。
 夜になれば事務所は毎晩、…毎晩海に変わるのである。
 それもどんどんとそれは量を増して、今では青空が見えていた。







 





 「……海だな」


 呟いたプロシュートの横で、リゾットが呟く。


 「ああ、海だ」







 彼女の能力はよくはわからなかった。
 そもそも何の害もなかったし、
 今となっては広がり続けるこの海が事務所に納まっている程度の事ぐらいで、
 何の問題もなく。


 遠くでビーチバレーをしているメローネとペッシを見やりながら、
 さんさんと降り注ぐ太陽のない青空を見上げた。
 絵が完成したらここは何処になるんだろうか。


 予想もつかない。








 白と青、両の掌に塗りたくった彼女は、
 延々とその色を壁一面に広げていく。
 太陽までは後、少し。 
 手が届きそうなくらい。














 けれど。思うのだ。
 
 海の色を広げ続ける彼女の真横で、時々照れくさそうに笑うギアッチョを見ていれば、
 まあ悪くはないのかもしれないと、そう。














 「ちょっと出かけてくる」


 昼間の時間には見えない海を見つめながら、ソルベがそうもらした。
 ジェラートと肩を並べて出ていくのをまたいつもの事だろうとギアッチョは見送る。
 部屋に残った彼女と二人きり、今頃チームの誰かは仕事なのだろうと思う。
 
 すっかり夏の夜は海に入り浸りなのだった。
 それが現実なのか夢なのか、時折解せなかったが。
 間違いなくけれど、彼女はスタンド使いであるらしかった。


 「……二人きりだね」


 呟いた彼女の声にギアッチョはそうだなと短く返す。
 ソファの背もたれから彼女の背中を見つめる。
 
 「…なあ、…俺達みんな」


 ひとごろしなんだぜ。
 そう言おうとした言葉はふいにつまった。
 何故そんな事を言いたかったのかはわからない。
 多分あまりに非日常だからだろう。


 多分。たぶん。


 「知ってるよ。…友達に言われたよ。
 パッショーネって言うギャングなんだよって。
 ギアッチョが最初に会った時の事を思えば、皆、魔法使いだね」


 「………お前怖くないのかよ」


 「どうして?」


 「殺されるかもしれないんだぜ」


 今更の話だったけれど。
 それができないだろうとギアッチョは思う。
 未だにばれていない目撃者であると言う事実。


 いつか、ばれても。


 「……うーん…、抵抗はするよ。
 でも、わたしが死んだらギアッチョ泣くでしょう。だから死なないよ」


 「…、そうかよ」
 
 「うん」


 馬鹿げている質問だったし答えだった。
 彼女が居るのは日常だったし、巻き込むつもりもない。
 傍観を決め込んだリーダーの甘さにはプロシュートが舌打ちしていたけれど、
 そのくせ自分は彼女に真新しいサマーワンピースなんざ買ってきているざまだ。


 「ギアッチョもさー…」


 「あ?」


 「長生きしなよね。そんでさ、一緒にずっと居よう」


 「……なあ」


 「なぁに」


 振り返った瞳にリボンつきの小さな箱がくるりと弧を描くのが見えた。
 両手で受け取った彼女が、筆をパレットにおいて瞬く。


 「…あけてみろ」


 ぶっきらぼうな声に彼女は頷いてからいそいそとリボンを解く…、
 小さな驚いたような声と共にギアッチョと、名前を呼んだ。


 「これ、これ」


 「学校よー…卒業したらお前日本帰るのかよ」


 「いや、こっちで就職あれば別に」


 「…じゃこっち居ろよ」


 「……、うん。…あー…ね、はめてはめて」


 頷いてくれた彼女に安堵で胸がいっぱいになる。
 小走りでくる彼女を抱きとめてから、子供みたいに小さな手のひらの左手薬指に、
 彼女の生まれた月の誕生石のついた指輪をはめる。
 アドバイスはプロシュートとホルマジオ、後はメローネから。


 「きれいだね」


 「…おう」


 「ありがとうね。…好き、なってくれて」


 「…礼を言う事じゃねーだろうがよ」


 そっぽを向いたギアッチョに彼女が笑いかけ、
 その内にどちらともなく唇が触れた。


 離れた唇と共に見返した彼女は、
 なんだかひどく幼かった。
 













 夏の終わり、
 太陽を描く彼女の為に脚立が部屋に持ち込まれた。
 落ちるんじゃねーぞと言うギアッチョの後ろでメローネがその様子を見ながら、
 ぱちぱちとパソコンに何か打ち込んでいる。
 時代は青春だねなどと呟いているが、ふと横から覗き込んだイルーゾォがさっと顔を赤らめているあたり、
 ろくでもない事が書いてあるのあるのだろうとリゾットは息を吐き出した。


 「なんか届いてるぜ」


 玄関からでかい要冷凍と書かれた荷物を運びこんでくるプロシュートに、
 リゾットはマグロかなどと真面目に問いかけた。


 「ンな訳あるかよ。つーか重い、手伝え」


 「…ああ、悪かったな」


 まだ仕事で戻ってこないメンバー宛のものかもしれない。
 やれやれと肩を竦めて荷物を運びこむのを手伝う。
 彼女がちらりとこちらを見やった。


 「あいす?」


 「わからん」


 聞こえた返答に残念と小さく呟いて、
 脚立の上から降りてくる彼女はギアッチョにがばりと襲い掛かり。
 絨毯の上に転がるギアッチョはかっと顔を真っ赤にしてから、
 お前とか口ごもる。


 メローネの笑い声が室内に響いた。
 やがて言い争いになる二人の様子に彼女は妬けるなあとイルーゾォの横で漏らす。


 「誰宛だっつーの」


 「書かれていないな」


 「だな」


 年長組の会話に視線だけ向けていたメローネが、
 掴みかかってくるギアッチョに押し倒されながら言った。


 「開けてみたら?」


 もっともな意見だとばかりに段ボールを開けば中には発泡スチロール。
 冷凍食品らしかった。


 「……なんだろうね。誰からだろう」


 不思議そうにつぶやく彼女にアイスじゃねーェのと呟いたギアッチョは、
 包みをあけていくにつれて興味なさそうに視線をそらした。





 それは冷凍庫に収められたまま、
 次の日また同じものが届いた。
 次の日も、次のひも、つぎのひも、つぎ、のひ、も。












 



















 「……もう来るんじゃねー」


 絞り出すような声だった。
 丁度、あれが届き出して五日。
 しばらく来ないでくれと言ったリゾットの言葉どおりに図書館などで時間をつぶしていた彼女の元に、
 五日ぶりのギアッチョはそう言った。


 「何があったの」


 「何でもねェ」


 明確なラインだった。
 壊れてしまった日常にはもう帰れないと、そう感じた瞬間だった。


 「ギアッチョ」


 「…………何でも」


 途切れてしまった声の先はわからなかった。
 伸ばした指先が触れた途端、ギアッチョは図書館だと言うのに彼女を椅子ごと抱きしめていたし、
 彼女は肩を震わせているギアッチョの様子にただ事ではないと感じとっていて、
 宥めすかすように背中をゆっくりと叩いた。


 「大丈夫だよ、ギアッチョ。大丈夫、大丈夫だよ」












 『大丈夫。大丈夫だよ、ギアッチョ。大丈夫』


 電話越しの声がそう言った。
 久しぶりの電話だった。
 電話の声がたった一言、メローネが死んだとの言葉だった事に彼女は何も言わなかった。
 
 ただ、大丈夫だよと彼女はそう言った。


 ひどく、懐かしい声だった。


 当たり前のように、近くにあった。
 気づいていた筈だったのに、日常は壊れやすいものだと言う事を。


 「なー…海行こうぜ、これが終わったらよー」


 『もちろんだよ。みんなも来るんでしょう』


 「ああ。……、チクショー…」


 なんでこんな事になっちまったんだ、なんて声が聞こえた。
 電話向こうの彼女は音を閉ざした。


 『…何もしなくてごめん』


 「…あ?…お前は悪くねーだろうが。
 ………泣くなよ」


 『泣いてない』


 「泣くんじゃねェー…、クソッ。今どこだ」


 『大学の図書館だけど』


 「……すぐ行くからよ、待ってろ」


 電話を切ってすぐ後、
 ギアッチョは車のエンジンをかける。
 
 そう、すぐに戻って、そうそれでいい。
 仕事なんざすぐに終わらせて。









 



 携帯がそれからして鳴った。
 彼女が出てすぐ向こうでひゅーと言う音がした。
 彼女が短くギアッチョと名前を呼べば、
 本当にか細い声で、愛してるだなんて声がした。



 何もかもができすぎたお話だった。















 わき目も振らずに泣きながら歩いて行く彼女が、
 事務所へと向かうのを黙ってリゾットは見ていた。
 左手の指輪がやけに物悲しく見えた。


 深いため息と共に、その後へと続く。


 音も、なく。









 辿り着いた先の室内からは、
 潮の香りがした。
 オレンジ色の絵具を広げて太陽を描こうとする指の先を見つめて、
 リゾットは目を細めて言う。


 「……まさか親衛隊だとはな」


 「…………」


 振り向いた瞳には明確な殺意などない。
 唯の、唯の泣きじゃくる女の子にしか見えない。


 「……………俺はもう行く」


 「そう」


 彼女は泣くのをやめて、脚立の上に座り込んだまま、
 リゾットを見返した。


 「わたし、ここが好きだよ」


 「知っている」


 「嘘なんかじゃないよ、知らなかったもの、知らなかったもの。
 こんな事になるだなんて、唯わたしはティッツァやスクアーロに話して、だけで」


 「…知っている」


 「わたし、」


 「もういい。お前のせいじゃない。判断して行動したのは俺たちだ」


 歩み寄って伸ばした指の先は染め抜いたハニーイエロゥを引きよせて、
 脚立の上の彼女の頭をリゾットは抱き寄せた。
 おひさまの匂いがした、海の匂いがした。
 何もかもが懐かしかった。


 「…楽しかった。それで充分だ」


 頭を撫でる指先は暫くそうしていて、
 ひどく不器用そうに笑ってみせた。


 変な顔と呟いてえらくそれ以上に不器用に笑う顔に、
 お前の方が変な顔をしていると言い返せば、
 彼女が笑った。


 それだけで十分だった。


 扉が閉まる間際、彼女の置いていかないでよなんて声がした。
 すぐに戻るとの言葉は、笑いと共に。背中ごしにひらりと、またなと手を振って。


 すぐに会えるのだと、言うみたいに、して。










 秋の終わり、アパルトメントに住むと言う元親衛隊の少女を、
 真新しいパッショーネのボスが尋ねに来た。
 扉を開いた時、まず潮の香りがしたと言う。
 それから潮騒が聞こえて、
 室内から飛び出してきたカモメに驚いて瞬くと、
 蜂蜜を煮詰めて溶かしたような髪の色が見えた。
 室内に浮かんだソファの上で、青い青い空を見上げて、
 降り注ぐ太陽の下、遠くにはビーチバレーをする誰かの姿が見えた。


 声をかけようとして、止めた。
 ここはまだ、夏だった。
 
 真新しいボスは、革靴を脱いで海へと踏みいれ、
 壁にかかれている笑っている数人の男の海パン姿を見やった。
 成程、向こうで聞こえている声は彼らのものなのかもしれない。


 目を閉じている彼女の表情はひどくいい夢を見ているようだった。
 まだ若いギャングスターはいつまでもいつまでもその寝顔を見ていた。















 






 


 





 楽しく書かせて頂きました。ありがとうございました。
 初めて書くジャンルで描き切れていたかどうかはわかりませんが、また同じヒロインでもうちょっとお話を書いてみたいなと思いました。
 また書く機会がありましたら、そのときは是非よろしくお願いいたします。ちょっとでも、何か感じて貰えたのならば、幸いです。

 07.9.24 環 智子 写真素材⇒MIZUTAMA