Leviathan




「お願いだ、見逃してくれ! 家には俺の帰りを待ってる家族もいるんだ!」

 使い古され埃の積もってしまったような命乞いの文句を叫びながら、男は拘束から逃れようと必死にもがいた。しかし男には自らの動きを止めているのが一体何なのかすら見えず、今まで数え切れぬほど試みた逃走のための抵抗は悉く無駄に終わっていた。
 彼は最後の希望に縋るような気分で目の前に立っている黒く長い髪の男を見たが、その目には何の感情の動きも見受けられない。

「……う、……この、人でなし……!」

 自分に突き刺さる冷たい視線にたじろいだ男は、絶望を存分に含ませた声でこう呟いた。どうやら自分の未来は既に暗闇に閉ざされているのだと漸く悟ったらしく、がくりと項垂れた後には嗚咽だけが聞こえてきた。
 長髪の男は暫くそれを冷めた目で見ていたが、おもむろに捕らえられている男に向かって一歩を踏み出した。そのまま歩みを進め、ただただ悲嘆に暮れる男を見下し、そしていつの間にか手にしていたナイフで男の腹を抉った。男の口から声になり損ねた空気が漏れる。

「同情を誘えば見逃してもらえるなんて思うなよ」

 そのまま彼は手首を捻って刃を直角に回し、そのまま水平に動かした。血と肉が生むなまなましい音と、服が刃に沿って裂ける音とが辺りに響き、それと共に男の喉からは凄まじい絶叫が、腹からは血が滴る。
 男があまりの苦痛に漏らす呻きを聞きながら、長髪は、男の腹に横一文字に走る傷から生えている凶器を抜き、まるで汚らわしいものから距離をおくようにして、数歩下がった。
 彼のスタンドである『マン・イン・ザ・ミラー』に拘束され、傷口からはとめどなく血を流しつづけている男を、長髪の男、イルーゾォは暫く何の感慨もなさそうに静観していた。鈍く光るナイフとその細い腕は男の腹から流れ出たおびただしい血に染まり、赤黒く濡れた色彩を放っていた。
 拘束された男の呼吸が徐々に浅く断続的なものとなり、顔色は血の気を失っていく様を、イルーゾォはただ静かに見ていた。整った顔には仮面のような冷たい表情を浮かべ、その目は何も映さず、彼の心の奥底に一体何が渦巻いているのか、誰も知ることはできなかった。

 それから何分とも何十分とも知れぬ時間が経った。
 イルーゾォはゆっくりとした動作で男の方へと近づくと、その首へ音もなくナイフを差し込んだ。男は既にほとんど動かなくなっていたが、それでもその動作に一瞬遅れて、小さな血の泡を吐いて絶命した。
 彼は男の死を目の端で確かめてから、手をそっと手前に引いた。流れるような動きだった。そして同時にスタンドを解除し、男の戒めを解き放った。
 赤黒く染まった男の身体は、地に引き寄せられていくかのように倒れ、腹の傷から十分に血を失った後だというのに、地面に転がった後もまだ生温い血溜まりをじわじわと広げていた。
 イルーゾォは、ナイフと手を一振りして滴る血を払ってから、懐から携帯を取り出し、血で汚さないように馴れた手つきで番号を押した。
 何回か控えめなコール音が続いた後、電話の向こうから声がした。

「もしもし、リーダー?」

 イルーゾォが発した言葉を聞いて、電話の相手は声だけでこちらの言わんとしていることがわかったようだ。電話口からの落ち着いた低い声に、イルーゾォは今まで固く引き結ばれていた口角を少しだけ緩ませた。

「ああ。今から帰るよ。……いや、俺は大丈夫だ。ありがとう。じゃあ」

 ごく短い状況報告を終え、軽い溜息と共にイルーゾォは電話を切った。そして、鏡の外からさりげなく様子を見ていたの方を横目で見た。

「終わったよ、帰ろう」

 そう言って、彼女の鏡の中への進入を許可する。
 彼女が完全に入ってきたのを見届けてから、イルーゾォはゆっくりとした足取りで歩き始めた。その横顔は背後に転がる死人のように青白い。

「珍しいのね、あんなに執拗にやるなんて」

 不意に、一番触れて欲しくないところをに触れられ、彼は無意識に少し俯いた。
 基本的にイルーゾォは、任務に必要以上の時間をかけることを好まない。時間をかければかけるだけ、人の死に触れる時間も多くなるからだ。彼にとって死とは痛みと恐怖に満ちた、忌避すべきものだった。
 しかし、そうはいかない時もある。相手から何らかの情報を聞き出してから殺す、つまり拷問しなければならない時と、彼自身の奥深くに眠る本性とも言えるものが鎌首を擡げるときだ。
 後者の性を呼び覚ます衝動はいつも突然やってきた。あたかも磯の潮が徐々に引き、その下に隠れていた暗い色の岩が表れるように、臆病で平穏を好む性格に潜むイルーゾォの残酷さは音も無く露わになる。
 一度そうなってしまうと、もう彼に自分を止める術はない。ただ恍惚と、己の本能の赴くままに相手を嬲り、弄び、そして殺す。後に残るのは、正気に戻った時の深い後悔のみだった。
 どうしてそんなことしてしまうのかはわからない。ただ、気がついたときには既に遅く、それは無意識のうちに起こっているということは確かだった。
 黙り込んでしまったイルーゾォを見て、は肩を軽くすくめた。

「まあ、いいけど。でもその手、洗うの大変そうね」

 彼女の視線の先にあるイルーゾォの手は、当然先ほどと変わらず赤黒い血に塗れている。手にこびりついて半ば乾いてしまったその液体を振り払うような仕草をして、彼は顔を顰めた。

「仕方ないよ」

 薄い唇から漏れたのは、その言葉だけだった。
 二人は足音もなく、まるでそこに人間が存在しないかのように静かに歩いていた。元々人通りの少ない時間帯ということもあり、鏡の中の逆さの路地は、全くの無音と共にそこにあった。

「……羨むの、もうやめたら?」

「なにを、」

 言ったイルーゾォの声には、少しばかりの棘が含まれていた。しかしはその小さな刺激をも意に介さぬかのように、

「『平穏な生活』よ」

 と淀みなく言った。彼女は顔を下げてはいたが、眼差しは前を歩くイルーゾォにしっかりと向けられ、投げかけられた言葉は彼の背を違わず捉えた。その言葉の重みに彼は再び顔を顰めたが、今度はその顔に、はっきりとした憎しみが暗い影を落としていた。

「自覚はしてる。今更もう無理だって」

 イルーゾォの表情は、何か鈍い痛みを堪えるように歪んでいた。
 自覚はしていても、まだ理解はできていない。
 イルーゾォが子供時代に送った生活は、同年代の一般的な子供と比べるとずっと荒んでいたであろうし、実際彼自身も自分の過去を忌み嫌っていた。
 彼は、自分がスタンド使いになって、そして堅気の世界から逃げ出してから、一体どれくらい経ったのか全く思い出せなかった。それだけの時が経っているというのに、心の深層ではまだ普通の生活という、彼にとっては触れることのできない幻のようなものに憧れ、嫉妬していた。
 だから、作為的にではないにしろ、平穏な日常を口にすることで彼の感情に訴えようとしたあの男を、イルーゾォは憎まずには居られなかった。

「分かっているならいいけど……」

 言葉はそこで途切れていたが、彼女が言わんとしていた言葉は痛みを伴う棘となって、イルーゾォの内側まで染み透った。それは脅しでも忠告でもない、単なる自身が感じた死の予感だったが、常日ごろから死の冷たさをその身で感じながら生きている彼は、彼女が言わんとしていた言葉の続きを静かに感じ取っていた。

「早く帰ろう。これ以上遅くなるとリーダーに心配かけちまうぜ」

 重く淀んだ空気を断ち切るかのようにイルーゾォは早口にそう言って、先ほどより速度を上げて歩き始めた。やはり、彼としてはこの話題は避けたいところだったのだろうか、その挙動には幾分余裕がないように思える。
 は先を進むほっそりとした後ろ姿を無言で見詰め、自分も後を追って早足で歩き始めた。
 とにかく今日は早く帰って、何も考えずに寝てしまうのが一番いい。そう思って、自分の両肩にのしかかってくる重みを感じながらも、イルーゾォは事務所へと急いだ。


07.11.06
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企画『The Number Of The Beast』に寄稿させていただきました。主催のシャラさま、素敵な企画に参加させていただき、ありがとうございました!