は俺に馬乗りになるなり俺の頬を力いっぱいぶった。非力なの細腕から放たれたとはいえ全身の怒りを乗せたその一撃はそれなりに効いた。口の中にじんわりと生暖かいものが広がって、口の中が切れたことを知る。だがしかし、殴られたのは幸いだ、と俺は考える。が真っ赤になった拳を庇おうともせず、手の痛みに気づきもしないかのように俺の胸倉をぎゅっと握り締めるのを見上げながら。まるで張り詰めた糸みたいだ。今にも千切れて壊れてしまいそうで危うい一本の糸。ずっとそんな状態が続いていたらと考えただけでどうにかなりそうだ。そうなるよりは、が怒りを吐き出して俺を殴ってくれたことは、俺にとっては救いになる。
噛み締めたの口唇が切れそうだったので、俺は振り払われるの覚悟でそっと腕を持ち上げ、指先での口唇に触れた。意外にもは無抵抗で、されるがままに俺に唇をなぞらせたが唇を噛み締めるのは止めないままだ。
「。唇が切れる」
俺が指での唇を強く押さえるとは渋々といった様子でやっと唇を薄く開いた。案の定薄く皮が破れて血の滲んだそこを指で拭ってやる。は抵抗こそしなかったが、彼女の射殺すような眼差しは俺を貫いたままだ。
は薄く開いた唇から荒い息を吐く。ゆっくりと何か言いたげに僅かに唇を動かすけれども、言葉にならないのか戸惑っているのか、洩れ出てくるのは声にならない吐息のみだった。彼女の大きく見開いたままの瞳が、迸る黒い感情とは裏腹に泣き出しそうに潤むのを見て、小さな手に押さえつけられた胸が締め付けられたように苦しくなる。こんな風にを追い詰めたりなどしたくはないのに、そうさせているのは俺自身なのだ。
俺はの腕を引いて彼女を抱き寄せた。は一瞬腕を突っ張って抵抗しようとしたが、すぐに諦めたように力を抜いて、大人しく俺の胸に頬を寄せた。彼女の頭頂部に鼻を埋めて震える身体を抱きしめる。そうしてやっと哀しげな視線が途絶えて、身勝手にも俺は安堵した。が顔を伏せたからといって彼女のやりきれない思いが消えたわけではないのに。
「リゾット」
は俺の名を切実な祈りかなにかのように呟く。
「リゾットは馬鹿だよ」
彼女の震える声は酷く弱弱しかったが、殺意にも似た彼女の絶望的な怒りはむしろ鋭さを増して胸を抉った。俺は返す言葉の代わりに一層強くを抱きしめる。腕の中でが身体を強張らせたのがわかったが、構わずに彼女を抱えたまま身体を横にしてずっと強く抱きすくめた。どれほどまでに力を込めたらが痛がるか俺はよく知っている。彼女が嫌がらないぎりぎりの強さで彼女を包む。固い床から庇うように、冷たい夜から守るように、俺のことを嫌いだなんて心にも無いことを言えないように。
は身を捩って俺を見上げる。その細められた彼女の瞳から、ついに、一粒またひとつぶと涙が零れ落ちるがは流れ落ちる涙を拭おうともしない。
「復讐なんて、馬鹿だよ。自分の手を汚して、シシリアを捨てて、そこまでして行う価値なんかあるわけ無い」
「ああ。そうかもしれないな」
「そんなこと心にも思って無いくせに!ただ、今はわたしを宥めたくて、刺激したくなくて、わかったようなこと言ってるだけなんでしょ。リゾットはそれだけの代償を負ったとしても復讐すべきだって考えてる、違う!?この……バカッ」
は俺の心を読み上げるように一息に言い切って、堪えきれないように顔を背けた。は理解しているのだ。いくら俺を打とうとも、罵ろうとも、俺の意思が曲がらないことを。そしてそれを理解しているが納得できなくて涙するのだ。俺はそっと涙の流れるの頬にくちづけた。そうするより他にすべきことが見つけられなかった。何度もなんども、頬から涙を伝って瞼へ。額へ。するとが僅かにこちらを向いたので、血の滲む唇へも、もう一方の頬も瞼へも順番にくちづける。には泣いて欲しくない。だから泣き止んで欲しい。そして、我がままを言うのならば、にはいつでも笑っていて欲しいのに。
がもう抵抗しなくなったので彼女の腕を掴んでいた手を緩めて彼女の腕を離した。自由になったの腕がゆるゆると俺の背に回って俺を抱く。泣きはらして潤んだ瞳が青白い月光を反射して輝くのを見て俺は場違いにもきれいだと思った。乱れたの髪の毛を指先で梳くと、はやっと、ほんの少しだけくすぐったそうにして微笑ってくれた。諦めたような疲れた笑みだったけれど、俺の心を落ち着けるには充分だ。でもそれ以上に、こんなにも激昂しても最後には俺を許してくれる彼女の優しさと寛大さとその心境を思うと、申し訳なくて切なくて愛しくてたまらなくなってしまう。の言うとおり、俺は馬鹿でどうしようもなくて、死んだほうがいいような男だ。そんなの知っている。自分のことだから。
を抱きしめて彼女の肩に顔を埋めると、は俺を受け入れて、頭を抱えるようにして包み込んでくれた。
「。すまない。本当に」
「もう謝らないで」
怒るのはやめたから、と俺の首筋に額を押し当てて彼女は呟く。仕方ないから許してあげる、と。その声音にはもうさっきまでの刃のような鋭さは無い。ただじんわりとあたたかく耳に響く。彼女の涙がはらはらと俺の肩を濡らすのを感じながら俺は瞳を閉じての声に耳を傾けた。
だからその代わりに約束して。故郷を捨てても、わたしのことを忘れても、どんなに辛い道が待っていたとしても、リゾットは生きていてね。絶対に、生きていて。
「そうしてくれたら、わたしは、あなたがどこかで生きていることを信じてこれから生きられる。生きていてくれたなら、すぐには無理でも、いつかまたばったり出逢えるかもしれないと希望が持てる……だからお願い、約束して」
俺は頷いて「約束する」と答えた。それ以外に何と答えられようか。彼女が俺を許さざるを得なかったように、俺も彼女に抗うことはできない。抗えるものか。いつまでも涙に濡れて俺にしがみつくことも彼女はできたはずだ。行かないでとか連れて行ってとか戻ってきてとか、叶えられることの適わない願いを口にすることだってできた。しかし彼女はそうして、ただ俺を困らせることをしないでくれた。これ以上の優しさがあるだろうか。
「俺はお前のことを絶対に忘れたりしない」
俺がぽつりと零すと、は何を思ったのか俺の首に緩く噛み付いて、「リゾットって本当に馬鹿だよねえ」としみじみと呟いた。
ああ、俺は馬鹿だ。失われた友の誇りを取り戻すことと引き換えに、自分自身の大切なものを打ち捨てようとしている。何も悟らせずに立ち去ることもできないほど不器用で、自分の女を宥められるような度量も無い。そんな途方も無い愚か者の俺を想って心を裂いてくれるに、俺は深く感謝した。が居てくれてよかった。が想ってくれている、そのことが勇気をくれる。神に背を向け、悪魔に魂を売り飛ばす、ある種の、勇気。
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俺はその夜のうちに故郷を捨てた。そして朝日の昇る頃、復讐を果たした。
家族を置き去りにし、今までの人生を棒に振り、熱心に神に祈ることで築いた精神的な安らぎに泥を掛け、ずいぶんと身軽になった俺の胸の中に、果たされた復讐への脆い達成感が満ちた。全てを投げ打って手に入れたものにしては、それはあまりにちっぽけで軽く、正直に言えば拍子抜けしたし、の言うことのほうが本当に正しかったのだなあと実感はしたが、しかし後悔するような気持ちだけは抱かずに済んだ。
それどころか、俺は「生きていける」と思った。汚れた両手を川の流れで雪ぎながら。
生きていける。這い蹲ってでも泥水を啜ってでも、やり直すことのできないたくさんのものを失ったとしても、まだ俺には亡き友の取り戻された誇りと彼女との約束がある。だから、俺は、まだ。
昇りきった太陽がやけに眩しくて目を細める。いま自分が立っている土地の名すら俺は知らない。故郷はここからどちらの方角にあるのだろうかとふと考え、その思いを振り払った。もう疾うに捨てた故郷だ。もう考えるのはやめよう。今はとにかく遠く離れた場所へ身を潜め、そして今日の糧を得る手段を探さなくてはなるまい。が俺にそう望んでいるから。
071130 For "The Number Of The Beast", with love. ( title by Agla )